そこはかとなくサウナと銭湯巡り

のんびり銭湯とサウナを巡ります

聖徳太子とお風呂 入浴文化を普及させた偉人

9月は帰省に向けた外出自粛の為、のんびりお風呂の歴史を学び中。

折角なのでブログで整理。今回は聖徳太子と温浴の親和性について。

みなさんご存じ飛鳥時代の摂政だ。

小学校で初めて歴史を学ぶ際、卑弥呼の次に登場した印象的なお方。

十七条の憲法や冠位十二階、遣隋使の派遣や仏教の普及など、幅広く活躍した人物。

そんな聖徳太子と入浴文化には大きな関わりがある。

 

1.入浴の始まりと聖徳太子

そもそも、お風呂はいつから存在するのだろうか。

『日本書紀』によると、552年に百済の聖王より釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時が仏教の伝来とされる。

聖徳太子は仏教に対し積極的であり、導入政策を通して日本国内に広く普及させた。

この仏教は入浴と深い関係にある。入浴によって七病を除き七福を得るとの考えであり、「沐浴の功徳」が説かれ、汚れを洗うことは仏に仕える者にとって重要な事とされた。

寺院に体を洗う「浴堂」や「浴室」が生まれ、施浴が盛んに行なわれ始めた。

施浴とは、寺院などにおいて、貧しい人々や病人・囚人らを対象として浴室を開放して入浴を施す事である。

当時は自宅の風呂場はもちろん、銭湯もなく、寺院の施浴は庶民にもありがたい存在であった。施浴は庶民に向けた福祉事業であったと言える。

つまり、聖徳太子が仏教の普及を推進した事で、汚れを洗う文化、つまり入浴の文化が普及したのだ。

現在も東大寺をはじめとした一部の寺院に浴室が残っている。

尚、当時の浴室は思い浮かぶ「お湯を張った浴槽」ではなく、「蒸し風呂」のスタイル。現代のサウナに近い

『ブリタニカ国際年鑑2013年度版』によると、日本人の99%が広義の仏教徒とされる。

 

2.道後温泉と聖徳太子

太子と入浴の関係は仏教だけではない。温泉に関するエピソードもある。

569年10月、太子は高麗の僧「恵慈」と「葛城臣烏那羅」とともに伊予の温泉(道後温泉)に来浴した。その感動を文章として湯のそばに石碑を建立建てたとされる。石碑のある値は「伊佐邇波岡」と呼ばれたそうな。

『伊予国風土記逸文』にその旨の記述がある。日本最古の石文の一つとされているが、現在石碑は見つかっていない。

当時の聖徳太子の拠点は飛鳥(現:奈良県)であり、道後温泉のある伊予(現在:愛媛県)まで移動した事になる。インフラが整備された現代でも400キロ弱の距離。海を使ったとしても、なかなかの長旅だ。

 

3.土湯温泉と聖徳太子

土湯温泉にも伝説が残る。

604年、国府寺の建設のため、聖徳太子は同志である「秦川勝(はたのかわかつ)」に御本尊を授け、東国に遣わせた。

 

しかし秦川勝は道半ばで病に伏せる。

病に苦しんでいると夢枕に御本尊が現れ「信夫郡土湯と言う所に温泉有り。ここにて湯治せよ。病癒べし」とのお告げをされた。

そこで温泉を掘り入浴したところ、病から回復。

この温泉が土湯温泉(現:福島県福島市にあり)である。

御本尊が夢再び現れ「我はこの地に留まりて諸人の病脳苦難を救わん」と告げられ、この地に聖徳太子の御本尊を祀ったとと伝えられる。

 

参考文献 / 参考サイト

「風呂のはなし 物語 ものの建築史」大場 修(著) 1986年
「温泉の日本史 記紀の古湯、武将の隠し湯、温泉番付」石川理夫(著)   
データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム (i-manabi.jp)
土湯温泉観光協会【公式】 (tcy.jp)