戦国を代表するキリシタン大名「大友宗麟」
名は大友義鎮(よしかげ)だが、法号の宗麟で知られる。
洗礼名はドン・フランシスコ。
江戸時代初期に書かれた『大友興廃記』に湯治の記述が残る。
宗麟が二十歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企んだ。
1550年2月、父の義鑑は宗麟を別府の浜脇温泉へ湯治に向かわせた。
義鑑は家督を宗麟の異母弟である塩市丸に譲ろうと考えていた。
宗麟が浜脇温泉で湯治する間を利用し、宗麟派を粛清する計画をしいていたが、義鎮派重臣が察知し反撃。
2月10日に塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷し2日後の2月12日に死去。「二階崩れ変」である。
結果、宗麟が家督を相続し、大友氏二十一代目の当主となる。
温泉での湯治中に家督を継いだ稀なエピソードである。
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